ききょうけん(キッズの教養を考える研究室)

「キ」ッズの「教」養を考える「研」究室

難しい「斬新」「逸脱」の境界線~日曜日の雑談4~

 こんにちは、ききょうけんのベル子です。

 

 突然ですが、皆さんは仕事や趣味で「斬新さ」を求められることはありますか?

 

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 私の日常の中には、あまり「斬新さ」を必要とすることがありません。

 

「既存のものが上手くいっていないから、今までと違う方法を考えなくては」という状況は頻繁にありますが、

「今までと同じ」「誰かと同じ」ということ自体には、別に困らない毎日です。

 

 でも、文房具のデザインや物語の設定などで、今まで見たことのない斬新なものを見るとワクワクすることがあります。

 

 芸術や企画に携わっている方は、常に斬新さを追求しているのでしょう。

 素晴らしいことだと思う一方、大変なんだろうなとも思います。

 常に、新しいものを追求し続けるなんて。

 

 デザイナー志望の方が、テレビで「自分にしかできないデザインって何だ?」と悩みすぎて迷走したエピソードを語っているのを、以前見かけました。

 

 そんな中、これまでの形に縛られない斬新なものを生み出せる人は、本当にすごいなと尊敬します。

 

 ただ、あまりに斬新すぎると、見ている方も困惑することがありませんか。

 私は俳句の作品で、そんな困惑を経験しています。

 

◎俳句と言えば五・七・五

 

 小・中学生の宿題の相談にのっていると、標語や短歌・俳句をどうやって作ればよいかという話題になることがあります。

 

「賞で入賞するような良い作品が浮かばない!」という悩みではなく、「一つも思いつかない」という話です。

 

 そこで、このブログでもそれを題材に記事を書こうかと考えていたことがありました。

 それは「リズム感を鍛えておくと、俳句や短歌に親しみやすくなる」という内容のものです。

 

 

 以前の記事で「リズム感が、小学一年生の国語の学習に役立つ」という話を書きました。

 

 ※その時の記事がこちら↓

kikyouken.hatenablog.com

 

 リズム感は国語の学習全般で役に立ちますが、短歌や俳句の学習では非常に重要になると感じています。

 

 例えば、先ほど出てきたような「自分で一句考える」という課題が出たとき、五・七・五のフレーズがどんどん口をついて出てくる子がいます。

 

 良い作品ができるかどうかはまた別の話ですが、リズムに乗ることに慣れていると、規定の文字数で話すということが苦になりづらいのです。

 

 文字数をいちいち数えずに、4拍子のリズムで

 

 タタタタタン(ウン) 

 タタタタタタタン

 タタタタタン(ウン)

 

 というリズムに合うように言葉を並べることを考えればすむからですね。

 

 それに対して、リズムに乗ることに慣れていないと、いちいち文字数を数えて考える必要があるので、とりあえず一句書き出してみるのにも非常に時間がかかります。

 

 

 

 この「リズムに乗る」というのは、自分で作品を作る時だけではなく、古典の読み取りの際にも関係してきます。

 

 国語の教科書で和歌を紹介するときには、途中で改行せずに一行にまとめて書くことが少なくありません。

 

 例えば

 

 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ

 

と、いうように。

 

 このような表記の歌を自分で読むときに、1~2回目から「五・七・五・七・七」に区切って読めれば、意味も読み取りやすくなるでしょう。

 

 それができるかどうかは、言葉の知識の有無にも左右されますが、

 

 タタタタタン(ウン) 

 タタタタタタタン

 タタタタタン(ウン)

 タタタタタタタン

 タタタタタタタン

 

 というリズムを想定できているかどうかにも、大きく影響されるのです。

 

 そのような理由から、私は「和歌の暗唱が苦手」とか「俳句が思いつかない」という子には、リズムに慣れることを勧めたりしています。

 

 でも、ブログの記事としては、結局書かずじまいでした。

 

 記事を書こうかなと考えるたびに、種田山頭火のことが頭に浮かぶのです。

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◎それは俳句なの?

 

 俳人種田山頭火の作品は、学校の教科書で読んだという方も多いと思います。

 私もその一人です。

 

 彼の有名な俳句といえば、やはり

 

 分け入つても分け入つても青い山

 

 ですね。

 

 他には、

 

 まつすぐな道でさみしい

 

 とか。

 

 

 これらは自由律俳句と呼ばれ、五・七・五の定型にも季語にも縛られない俳句とのことですが、

 

……それって、俳句なんですか

……それは「縛られない」というよりは、もはや俳句ではないのでは

 

と、子どものころに浮かんだ疑問が、未だに解消されません。

 

 もちろん自由律俳句を世に出している俳人種田山頭火だけではありませんが、私が子どものころ教科書で学んだのがこの人物だけだったため、

 

「とても斬新ですごい」と「斬新すぎてもはや別のもの」の境界線はどこなんだ

 

という疑問を代表する人物として、頭にこびりついています。

 

 

 それで、「リズムに慣れれば、五・七・五のフレーズが浮かびやすくなりますよ」という話を書こうとすると 

 

「いやでも、別に『俳句=五・七・五』とも言い切るべきではないのかも?

 だったら、リズムに当てはめることに意味はなくなる?」

 

と考え、今日にいたります。

 

 

 文学や芸術って、奥が深いですね。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。