ききょうけん(キッズの教養を考える研究室)

「キ」ッズの「教」養を考える「研」究室

ふきげんな家族(後編)~3行で振り返る読書(11)~

※ネタバレ注意

 

今回は、伊藤比呂美さんのエッセイ「伊藤ふきげん製作所」の内容に関する記述が含まれます。

 

 こんにちは、

キッズの教養を考える研究室「ききょうけん」のベル子です。

 

 今回の3行で振り返る読書は、「伊藤ふきげん製作所」を振り返る記事の後編です。

 

※前編はこちら↓ 

kikyouken.hatenablog.com

 

 まずは、前回振り返った3行を思い出してから、少し詳しい内容について書いていきます。

 

◎3行で振り返る

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内容は→「ふきげん」なお年頃の娘2人(と乳幼児)を海外で育てる等身大の日誌

特徴は→日本で「あるある」な思春期事情と海外での子育て事情をすっきり言語化

印象に残った言葉は→「まさか自分が『まさか』と思うなんて、思いませんでした。」

 

◎伊藤家の事情

 

 前編で書いた通り、この本は元々新聞で連載されていたエッセイを一部改変して書籍化したものです。連載中にも多少の時間経過がありましたし、少し昔のことを振り返って書いていることもありました。筆者の伊藤さん自身の子ども時代を振り返ることもありますが、基本的には伊藤さんの長女が小学5年生~高校1年生くらいまでの時期を中心に扱っています。次女は長女より2歳年下で、三女は連載時に3歳だったようです。

 主な舞台はカルフォルニアですが、長女が「ふきげん」を垂れ流し始めた小学5年生の時点では、一家はまだ日本にいました。この時点で既に、長女たちの実父と伊藤さんとの間では離婚が成立していたようなのですが、離婚後も何かと接点は多く、父母で協力して子どもと関わっていたようです。

 でも、その後なんやかんやあって(そこについては本の中でも詳しくは書かれていません)、娘たちの実父は日本に残ったまま、伊藤さんと娘たちはアメリカに移住して年上のイギリス人男性と暮らすようになります。アメリカでは、娘からみたこのイギリス人男性の立場を「ステップダッド」呼ぶそうです。日本語に訳すなら「継父」とうことになりますが、伊藤さんによると若干ニュアンスが違うようで、エッセイ中では「ステップダッド」という言葉が強調されるように何度も使われます。

 

 娘たちは英会話もままならない状態で異国の地での生活を始めることになりました。言葉だけでなく、日本とアメリカでは文化や感覚、さらには女の子たちの身体の発育のしかたまで違います。しかもステップダッドはイギリス人ですから、アメリカの学校の大人たちと、家庭内のステップダッドとでも、またいろいろと違いがあることでしょう。

 日本人の感覚だと「かなり特殊な家庭環境」と思われるかもしれませんが、カルフォルニアでは「家にステップダッドがいる(ことオープンにしている)子ども」も、「英語がスラスラ話せない状態で学校に通っている子ども」も、さして珍しくないそうです。ただ、長女たちが通う学校にいる「英会話が苦手な子」の多くはメキシコ(スペイン語圏)の子ども達なのだそうで、東洋系の子どもという点で伊藤家の娘たちはかなりマイノリティだったということも書かれています。

 

 こうした環境の中での「ふきげん」模様が語られていきます。

 

 

◎育児と国境とジェネレーションギャップ

 

 慣れない環境で周囲と打ち解けるのが難しいこともあり、娘たちは日ごろ、アメリカの同級生達とそれほど親しくはしていません。そのため現地の子ども達の心の内はそれほど詳しく語られませんが、現地の大人達が思春期の子どもたちとどのように接しているかは、エッセイ中のあちこちからうかがえます。

 どこの国の子ども達にも思春期はあるわけで、その点では国境など関係ありません。その一方で「どうとらえるか」「どう向き合うか」という点では国や地域によって大きな違いがあるでしょう。

  この本では「思春期と性」とか「思春期における性」という視点でいろいろなことが語られています。長女や次女の心と身体の変化や、伊藤さん自身の思春期の記憶など。 

 そんな中でアメリカでの性教育が日本のものとは全く別物であることが語られていて、非常に勉強になりました。

 日本だと何かとタブーの多い分野ですが、アメリカではかなりオープンです。いえ、オープンというよりは、現実的で科学的というイメージでしょうか。「恥じらい」なんて言葉がある通り、仮に自分の心や身体に変化があっても、日本では表立って語らないような節度が何かと重視されます。アメリカでも「何でもオープンに」ということはないと思いますが、心や身体に変化が起こるのは事実ですから「その事実も全部ふまえて、どう生きるのか」を考えるのに必要な知識や技能を身につけさせようというスタンスなのでしょう。

 

 また、考え方に違いが生じるのは国や地域による場合だけではなく、世代の違いによるものもあるでしょう。本の中で何度となく語られて印象深かったのが、伊藤さん自身の思春期と子ども達との対比です。

 伊藤さんはそれこそ「恥じらい」の意識の強い日本の文化の中にどっぷりつかって育ってきました。悪いことでもないのに「恥ずかし」がらないといけない、そうした文化に対して伊藤さんは若いころから疑問を感じていたそうです。だから娘たちには自分自身の性などについて、悪くないものは悪くないと堂々としていて欲しいと考えていたものの、いざ娘たちがあまりにも開けっぴろげな様を見てしまうと何か言いたくなってしまう、そんなエピソードが何度となく語られます。ずっと疑問を感じていたといっても、その文化の中で生きていた身としては切り替えられない部分があるのでしょう。面白いなと思います。

 さらに、娘たちのステップダッドと実父とでは娘への接し方が当然異なるのですが、それは「日本人と、イギリス人との違い」というよりは「自分と同年代の男性と、自分よりずっと年上の年代の男性との違い」と感じている部分もあるようです。

 

 やはり、「日本人だから、アメリカ人だから、イギリス人だから」と単純にくくれるものではないよなあ」と改めて感じました。

 

◎育児中の「まさか」

 

 アメリカでの生活を始めてからしばらくして、長女は食べることに躓いてしまいました。一言でいってしまえば「摂食障害」です。(伊藤さんは最初この言葉を使うことに抵抗があったそうで「食べることに躓く」と表現していますが、その後の文中で「摂食障害」というはっきりした言葉を使っています。)

 その事実がわかった時のことを語っている箇所で、伊藤さんが書いた一文がこれです。

 

「まさか自分が『まさか』と思うなんて、思いませんでした。」

 

 伊藤さんの職業は作家で、当時海外で暮らしていて、パートナーも外国人です。いわゆる「一般的な日本人の人生」とはかなりかけ離れたものですよね。多くの日本人が経験しないことも、たくさん経験しているでしょう。きっといろいろなことを柔軟にとらえられるだろうと思います。

 さらには伊藤さんご自身も過去に摂食障害を経験していて、他の方と共著で本も出版しているそうです。体験もしているし知識も人よりあるはずで、誰かから摂食障害だと打ち明けられても、そうそううろたえたりはせずに冷静に客観的に考えることができるのではないでしょうか。

 ところが、いざ我が子が食べることに躓いたと知った瞬間に思ったことは「まさか」だったのです。

 やはり相手が我が子となると「思い入れ」や「思い込み」も強まり、「まさか」となりやすいのでしょうね。この一文がとても印象に残っています。

 

 

◎最後に3行で振り返る

 

内容は→「ふきげん」なお年頃の娘2人(と乳幼児)を海外で育てる等身大の日誌

特徴は→日本で「あるある」な思春期事情と海外での子育て事情をすっきり言語化

印象に残った言葉は→「まさか自分が『まさか』と思うなんて、思いませんでした。」

 

 前回、今回と2回にわたって「伊藤ふきげん製作所」を振り返りました。

 文体は落語風といいますか、改まった感じを出さずに終始フランクな口調で語られています。前述の通り離婚や摂食障害など重くなりそうな題材もありますが、全体を通して浮かれすぎず沈みすぎずに進んでいくので、気軽に読みやすいでしょう。

 元が新聞連載ということもあり、同じくらいの長さの文が細かく区切られていますから、何かの合間に読み進めるにもちょうど良いのではないでしょうか。

 出版から20年近く経っているため現在の子育て事情とは異なる部分もありますが、興味のある方は、図書館や古書店で見つけてみてください。

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。