ききょうけん(キッズの教養を考える研究室)

「キ」ッズの「教」養を考える「研」究室

「他者のために休む」ということ~日曜日の雑談24~

 

 こんにちは、

「ききょうけん」のベル子です。

 

 日曜日は雑談記事です。

(※今回字数が4000字を超えてしまいました。お時間のある時に)

お気軽にお付き合いください。

 

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 幼稚園から大学まで全て徒歩で通った私ですが、社会人になってからの一時期、都会で満員電車に揺られる生活を送っていました。

 私はもともと人混みが苦手で「都会に住むとか満員電車とか絶対無理」と思っていたのですが、慣れとは恐ろしいものです。電車通勤を始めて数か月たつころには、立ったまま「うたた寝」ができるようになってしまいました。(満員電車は常に周囲の人から押され続けている状況なので、誰かに寄りかかるまでもなく楽に立っていられるのです。)

 

 今でも満員電車や人混みが苦手なのは変わりません。でも人混みだろうと「毎日乗りなれた電車」には苦痛を感じなくなっていたのでした。「慣れ」って本当に不思議なものだと思います。

 

 ところで、朝のラッシュ時の電車と聞いて、皆さんはどんな乗客を思い浮かべるでしょうか。

 私の実家のある北関東の地元は車社会なので、ラッシュ時の乗客といえば半分以上が学生です。でも、都会の電車は通勤客もたくさん乗っていて、私が利用していた満員電車は、制服の学生と社会人で半々くらいだったのではないかと思います。

 

 そんな満員電車を利用していたのは2年にも満たない期間でしたが、その中で何度となく「運休」や「遅延」を経験しました。

 都会なので、ラッシュ時の電車は数分おきに駅に到着します。仮に何らかの理由で電車が10分間動かなくなってしまった場合、数本分の電車の乗客がホームに集まるわけです。その後「10分の遅延」で電車が動き出しても、ホーム混雑はそう簡単に解消されません。普段からガラガラの電車であれば、動き出した最初の電車に待っていた乗客全員が乗り込むことができますが、もともとが満員電車だと、遅れていた1本に数本分の乗客が乗ることなどできないのです。混雑の中ホームで待っていても、結局数本の電車を見送ってから乗るしかない人もいて、普段通りのホームに戻るまでには時間がかかります。

 

 私の場合はバスを利用した別のルートもあったので、混乱が大きそうな時は早めに諦めてそちらで出勤していました。お金が余分にかかりますが、仕事に間に合わせるためにも仕方ありません。

 出勤時間に間に合うくらいの遅延であれば電車に乗るのですが、やはり普段とは勝手が異なります。ホームが混雑して移動しづらくなりますし、乗り換えなどの都合を考えると、電車の遅延自体が5分だったとしても、実際の目的地への到着時刻が10分20分遅くなる人も少なくないでしょう。

 

 そんな状況の時、いつも聞こえてくるアナウンスがありました。

 正確な表現は覚えていませんが、「〇〇高校と〇〇高校には鉄道会社から遅延の連絡をしました。その2校の生徒は遅延証明書を取らずに、直接学校へ向かってください」という内容です。

 どこの鉄道でもあるような「〇分遅れの運行となっています。ご迷惑をおかけします。」というようなアナウンスと一緒に、この放送が流れてくるのです。この2校は毎回同じ私立の高等学校の名前で、おそらく沿線の駅の近くにあるのでしょう。私がいつも乗る電車でたくさん見かける制服が、それらの学校の子どもたちなのだとすると、かなりの人数です。

 

 私はその放送を聞くたびに、「シンプルだけれど、面白い発想だな」と思っていました。私は学生時代に電車通学を経験していませんが、「通学に利用していた電車が遅れて、駅で遅延証明書という小さな紙をもらって学校へ行った」という話を子どものころから何度も聞いています。

 正確にはどのような処理をしているのかはわかりませんが、この遅延証明書を持ってきた生徒の遅刻に関しては、内申書などでその生徒の不利益にならないように扱われているはずです。寝坊や道草ではなく、正当な理由で遅れてきたと認めてもらえる手段になります。

 

 でもその当時、駅で配られる遅延証明書を受け取るためには、配っている駅員さんのところに並ばなくてはいけませんでした。

 たくさんの人が乗っている電車が遅れれば、それだけ長い列になります。その列がはけるまでには時間がかかるでしょう。その間の駅舎内の混雑にもつながります。

  そんな状況出てきたのが、この「あなた達の学校には直接連絡したから、遅延証明書は必要ありません」という旨のアナウンスです。

 

 この方法をとることによって、

 

高校生は、

ただでさえ電車遅延のために遅れている学校への到着時間をさらに遅らせることなく、少しでも早く授業を受けられるようになり、

 

遅延証明書が必要な人たちは

並ぶ人数が大幅に減ることで、時間をかけずに証明書を受け取れるようになり、

 

その他の乗客も、

高校生が駅にとどまらずに速やかに学校に向かうことで、混雑が緩和された駅舎を利用できるようになり、

 

駅員は、

その駅で降車する多くの高校生に遅延証明書を配らずに済むことで、証明書を配る手間と時間が大幅に減らせる

 

と、たくさんのメリットがあります。

 

  高校側にとっても、生徒一人一人から証明書を受け取って処理をするより、ずっと楽かもしれません。

 

 実際に、その後鉄道業界全体が紙で配るより効率良い方法に変わってきたということなのか、最近では鉄道各社がインターネット上で遅延証明書をプリントできるようにしているようです。

 

 

 さて、当時の私には、前述の電車のアナウンスを聞いて改めて考えさせられたことがありました。

 自分はずっと「人混みが苦手」と考えていましたが、よく考えると「人混み」という何かが存在するわけではないのですね。そこにいるのは「一人一人の意思をもった人間」です。個人が、それぞれの事情で集まってきている結果「人混み」になっているわけで、そこ場所に行けば私自身も人混みの構成する要素になっているということを始めて意識したのです。自分と「人混み」を別のものと考えていましたが、周囲の他の人にしてみれば、私も人混みの一部でしょう。

 混雑に巻き込まれると自分が被害者のような気がしてしまいがちですが、仮に自分が「被害者」なのだとしたら、周囲の人にとって自分は「加害者」にもなっていたわけです。

 

 お店やイベントの行列ならば行きたい人が行くので良いかもしれませんが、災害時や交通機関のトラブルなどでの混雑の場合、「苦手だから、行きたくないから行かない」というだけでなく「本当に必要な人がスムーズに行動できるよう、混雑解消のために行かない」という視点で判断することも必要なのだろうと考えるようになりました。

 

 

 ところで先ほどの電車のアナウンスの件ですが、この方法をとることで一つ考えられるデメリットは「電車の遅延以外の理由で遅刻した生徒と区別がつかない」ということでしょう。

 当日遅刻した子の中には、電車のせいではなく単純に寝坊して遅刻した子もいるかもしれません。また、遅延発生後に「じゃあ家の近くで時間をつぶそう」と寄り道する子もいるでしょう。頑張って普段よりギュウギュウの電車に揺られ、一刻も早く学校へ行こうと頑張った子も、そうした子と同じ扱いです。

 

 真面目な子にとっては、納得いかないかもしれません。

 

 でも、「納得できない」以外のデメリットはあまり思い浮かびません。真面目な子だって列に並ばないですむ方が得なはずです。寝坊した子も「ラッキー」と思ったとしても「明日も寝坊しても大丈夫なんだ」という勘違いにはつながらないでしょう。

 

 そして、「遅延しているなら駅前で寄り道して、落ち着いたころに駅に行こう」という、いわば「ちゃっかりさん」タイプの生徒ですが、「通学途中の寄り道の是非」についておいておけば、とても良い判断のような気がしてきました。

 真面目な子から見れば「ずるい」と感じるかもしれませんが、遅延で混乱が生じている駅に行っても、そうそう電車に乗れません。自分が混雑に加わらないほうが、混乱が落ち着くのが早くなり、結果的に自分が学校に到着する時間も早くなるかもしれません。何より、「一刻も早く電車に乗って、目的地に到着しなくてはならない」という緊急性の高い人の助けになります。

 

 

 それでもやはり日本人の感覚だと「とにかく一刻も早く目的地に着くために、混雑した駅で待ち続ける」方が「真面目で誠意がある」と捉えられているように思います。

 でもそれは、誰にとってもあまり得にはならないようです。そうはいっても頑張って「誠意ある行動」をとらずにいられないこともあるでしょう。

 

  先日の台風の際には「当日、嵐の中で出勤するべきかどうか」という議論が各地であったようです。

 当然「こういう時だからこそ出勤しなくてはいけない」という仕事もたくさんあります。でも、そうではない業務をこなすために出勤するように指示された人もいるようです。

「危険を冒してまで仕事(通学)をするべきではない」「いや、こういう時だからこそ必要な仕事があるんだ。そういう人が出勤しなくても良いのか」といった議論がありましたが、

私は

「『どうしても出勤しなければいけない人』がより仕事に専念しやすいよう、緊急性の無い人は休むべきだ」

という基準で自分がどうするか判断したり、身近な子ども達に声をかけていきたいと考えています。

 

「無理をしなくて良い」というよりも「他者のために休む」と考えるほうが、罪悪感もないですし、合理的ではないかと。

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。