十数年前の流行語~3行で振り返る読書(5)~
こんにちは、
キッズの教養を考える研究室「ききょうけん」のベル子です。
先月から「3行で振り返る読書」として、私がこれまでの読書体験の中から、印象に残った本を紹介する記事を書いています。毎週金曜日に更新予定です。
※前回の記事はこちら↓
(シリーズ全体を通して、あくまでも私の個人的な感想や解釈に基づくものなので、筆者の意図から外れていることもあるかもしれません。その点はご理解くださいますようお願いします。)
前回は絵本だったので、今回は気分を変えて一般向けの本にします。
今回振り返るのは、2007年にミリオンセラーになったエッセイ「鈍感力」です。
2010年に文庫化もされていて、私は文庫版の方を読みました。
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この本の内容は、もともと渡辺淳一さんが2005年~2006年に雑誌で連載していたものだそうです。それが2007年に集英社より刊行されて話題になり、「鈍感力」という言葉はその年の「ユーキャン新語・流行語大賞」のベストテンにも入りました。
基本的には、大人向けの本です。
ただそれは内容的に「大人の方が共感しやすいのでは」とか「児童書ではない」という話であって、読書慣れしている子であれば中学生・高校生でも読めるくらいに比較的平易な表現が用いられています。
筆者の渡辺淳一さんは小説「失楽園」でも有名ですが、この「鈍感力」では性描写等はありませんので、その点は心配いりません。(生々しい外科手術の描写などが若干あります。)
◎3行で振り返る
・「鈍感力」とは→「図々しさ」ではなく「過敏にならない力」
・感じたこと→「繊細さ」に苦しめられる人が多いからこそヒットしたのだろう
・考えたこと→今でも使う機会は多そうなのに、あまり使われなくなったのが不思議
◎「鈍感力」とは
「鈍感力」というのは、物理学の「垂直抗力」のように科学的にはっきり定義された力では、もちろんありません。
そのため、著者が本来意図しない意味で使われてしまう場面もあると、文庫版の前書きに書かれています。
「無神経な人」や「図々しい人」を「鈍感力のある人」という人もいますが、筆者に言わせるとそれは間違いなのだそうです。
筆者はあくまでも「良い意味での鈍さ」を「鈍感力」としています。
一般的に「鈍感」の対義語は「敏感」です。「鈍い」の対義語は「鋭い」です。
「敏感な人」や「鋭い人」は能力の高い優秀な人という印象があります。「いろいろなことに良く気づく、細やかな人」は、どこでも尊敬され好かれそうです。でも「反応が過敏な人、細か過ぎる人」となるとどうでしょうか。かなり生きづらそうなイメージになりますね。
鈍感すぎるのは必ずしも良いことではないだろうというのは、だれでもイメージすることだと思います。ただ、この本の中で「鈍感力のある人」は「過敏でない人」「細か過ぎない人」の対極の存在として書かれています。「良い意味で鈍感になろう」というわけです。
本の中では色々な観点で「鈍感な方が得だ」という例が紹介されていますが、これはおそらく、多くの日本人にとって詳しく説明されなくてもなんとなくイメージできることなのではないでしょうか。
「怒られても、気にしすぎない方がストレスがたまらない」
「皮肉など、他人からの悪意に気づかない方が幸せ」
「振られてもめげないくらいの精神の方が恋愛を楽しめる」
「細かいことを気にしない自分を見れば、周囲も安心して居心地が良くなる」
「触覚や聴覚も過敏でない方がストレスがたまらない」
「他人のクセや習慣の違いに無頓着な方がストレスがたまらない」
「味覚や嗅覚が過敏でない方が、食事などの日常生活を楽しめる」
「潔癖であるよりも、雑菌に囲まれていても気にしないくらいのほうが健康を維持しやすい」
全編を通して、そういった例が紹介されていきます。
ちなみに「鈍感になった方が幸せだよ」という内容で「どうしたら鈍感力をつけられるか」といった具体的なアドバイスなどはほとんど書かれていません。「自分で意識するしかない」というところでしょうか。
◎「気にしすぎな人」と「気にしてほしくない人」
以上のように、ある意味至極当然といいますか、わかりきったことが書いてあります。
それが当時ベストセラーになり流行したというのは「繊細」過ぎて生きづらさを感じている人が多かったのでしょう。
とはいえ、単純に「気にしすぎない方が良いよ」というだけであれば、そこまでヒットしなかったのではないかと思うのです。
「過敏だと何かと損をする」ということはわかっていても、日本人は常に「細やかさ」を求められている気がします。(国外の文化については私にはわからないので、日本人に限ったことではないのかもしれませんが)
いろいろな場面で「繊細であること」「細やかであること」は美徳とされていますが、それを常にお互いに要求しあう社会というのは非常に息苦しいものです。
この本が出てから10年ほど後に「忖度」が流行語になりましたが、言われてもいないことまで察して気を利かせられる人が「良い人」とされます。そこまでは悪いことではありませんが、自分ではっきり伝えていないことを「察してほしい」と期待し、それがかなわないと相手に負の感情を抱いてしまったりすることも珍しいことではありません。
「本物の味」がわかる人は確かに素晴らしいですが、ちょっと味が変わると「まずい」と感じる人をおもてなしするのは気を使います。最大限おもてなしをしているのに、期待された内容でないと「無礼な人」と言われるかもしれない。そしてそれは場合によっては、もてなす側が「自分もまだまだ修行が足りないな」と考えるだけでは済まずに、「おもてなし」される側も「期待した味が出て来ない=自分が軽んじられている」と感じてしまうことさえあります。それではお互いにとって何も良いことがないですよね。お互いにそんなことを気にせず、有り合わせの食べ物をおいしく食べて楽しい時間を過ごせた方がよっぽど幸せではないでしょうか。
自分が「気にしない人になる」「鈍感になる」だけなら自分の気の持ちようで何とかなります。
でも、「自分に繊細さを求めないで欲しい」「細やかさを期待しすぎない世の中になって欲しい」「自分がガサツな接し方をしても、傷つかないでほしい」というように、「世の中の空気が変わったら良いのに」とも考えている人が多かったとしたら、それは自己啓発の範疇で解決できません。
この本がヒットした理由には、「自分自身だけではなく世の中の意識が変わるように、誰かに背中を押してもらいたい」と感じた人が多かったという部分も大きいのではないかと、個人的には感じています。
◎私は今でも使っています
この「鈍感力」という言葉、最近どかかで聞いたことはありますか。
10年以上前はかなり流行ったと思うのですが、最近ではほとんど使われなくなったように思います。
少なくとも私自身の周辺では、ほとんど聞かなくなりました。
でも、私は今でも日常的に使っています。
教育関係の仕事をしていると、観察眼や分析眼を持つこと、細やかに気を配ることは大切です。それは間違いありません。でも、実際に現場で仕事をするとなると、「鈍感」でないとやっていけない要素もあるのです。
おそらくそれは教育に限ったことではなく、どこの業界、どこの職場でも似たようなところはあるでしょう。
ですから余り詳しくは書きませんが、理想の高い人ほど現実とのギャップに悩んでしまったり、周囲の様子をよく見ている人ほど「自分がこんなに頑張ったのに、上司の態度がそっけない→認めてもらえてないんだ」と悪いほうへ解釈して落ち込んでしまったりすることが少なくありません。そして「もっと理想的な環境だったら良いのに」とか「理解ある上司になってくれたら良いのに」という不満に発展することもあります。
望み通りの環境で働けるならそれは素晴らしいことですが、現在私が働いている職場は発展途上な業界だということもあり、やはり現実問題としてはなかなか理想通りにははいきません。
そのため、「この職場で気持ち良く有意義に働くためには、『志』や『技能』と同じくらい『鈍感力』が必要」だと考えているのです。
高い理想と技能を持っていても、鈍感力が足りずに上手くいかない人もいます。そんな時に「この職場は鈍感力が必要だから、あなたが今の自分の『敏感さ』を長所として捨てたくないなら、この仕事は向いていないかもしれない」という話をすることもありました。また職員間のコミュニケーションが上手くいかないときに「○○さんは周囲の人ほど鈍感力がないから、▢▢というような対応をされたら(他の人なら気にしないけれど)辛いのだろう」というように。
そういった話をした時、大抵の場合相手が「そうだね。『鈍感力』だよね。」と言葉を噛みしめるような反応をします。「そうだ、それは凄く大切なことだ。この職場に必要な観点だ。」というように。
でも、私以外の人から聞くことはないのです。以前あれだけ流行ったのに、なぜか忘れ去られてしまったようで、私にはそれがとても不思議です。
◎最後に3行で振り返る
・「鈍感力」とは→「図々しさ」ではなく「過敏にならない力」
・感じたこと→「繊細さ」に苦しめられる人が多いからこそヒットしたのだろう
・考えたこと→今でも使う機会は多そうなのに、あまり使われなくなったのが不思議
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。