「欲張り爺さん」のパラドックス~日曜日の雑談14~
こんにちは、
ききょうけんのベル子です。
突然ですが、皆さんは自分自身のことや人間関係などを語る時に、例えや戒めとして寓話を利用することはありますか。
先週私は「これぞキッズの教養!?」というタイトルでEテレの教育番組「おはなしのくに」の紹介記事を書きました。
※「おはなしのくに」紹介記事はこちら↓
海外の童話や日本の昔ばなしの中には教訓めいたものもたくさんありますし、その話自体にはもともとそれほど教訓がこめられていなかったとしても、何らかの教えを語るための例えとして使われる話はたくさんありますよね。
その例えが理解できるようになっておくために、有名どころの話は押さえておいた方が良いのではないだろうかということも、その記事の中で書きました。
実際私自身にも、自分を律するのに役にたったお話もありましたし、たとえ話として便利に利用させてもらっている話もあります。
ただ、そんな私にも、子どものころからずっとスッキリ納得できないお話があります。
それは
「金銭的な欲を持たない人に良いことが起こる」
というパターンのお話です。
これが
「金銭的な欲を持たない人が幸せになれる」
というパターンなら納得できるのです。
大切な人のために儲け話をふいにして「お金はないけれど幸せ」という話ならわかります。
また、
「欲張りすぎるとろくなことにならない」
という教訓にも納得できます。
それは確かにその通りでしょう。
でも、
「無欲な人に良いことが起こる」
は、どうも納得できないのです。
例えばグリム童話の「星の銀貨」という話では、無欲な女の子が主人公として登場します。女の子は自分自身も食べ物や着るものをほとんど持っていないのに、そのなけなしの服や食料を他の人たちにどんどん分け与えてしまうのです。全てを失った女の子を神が褒めたたえ、彼女の上に星を降らせます。そしてその星は銀貨になり、彼女は裕福で幸せな暮らしができるようになりました。
実際の表現はもっと感動的だと思いますが、大まかなあらすじはこんな内容です。
先生「欲を捨て、物に執着せず、全てを他人のために使えば、とても良いことがありますよ。」
↓
生徒「どんな良いことがありますか?」
↓
先生「あなただけがお金持ちになれるのです。」
↓
生徒「それはすごい、じゃあ私も欲を捨てて物に執着するのをやめよう。お金持ちになりたいもの!」
この時点で、欲を捨てられていない気がするのです。
日本の昔話でも、
「欲張るのはやめましょう。そうすれば大判小判がザックザク。」
という類の話はたくさんあります。
「よし、大判小判が欲しいから、欲張るのやめよう」
と心がけるべきだということなのでしょうか。どうもしっくりきません。
もしかすると、この「大判小判がザックザク」系の話が伝えたいのは、「本気で儲けたいなら、表向きはガツガツしちゃいけないよ」ということなのでしょうか。それならなんだか日本の教えらしいと言えないこともないかも。
でも、星の銀貨はグリム童話ですから、海外でも似たような教えがあるということですよね。
「本気で儲けたいなら、財産を抱え込むのではなく、人脈や信用を築くために投資しよう」という教えならわからなくもないような?
いろいろ考えてみるものの、やはりスッキリできていません。
いずれにしても、主人公が最後につかんだ「幸せ」が「富」である時点で、「富を追い求める人のための教訓」にしかならないのではないかと思うのです。でも、星の銀貨はともかく、日本の多くの昔ばなしでは欲張り爺さんを引き合いに出して「富を追い求めていたら、ろくなことにならないよ」と教えられています。
「欲張りすぎるより、ほどほどを追い求めた方が幸せになれるよ」という教えであれば、最後に得られる「富」も「ほどほど」で良いはずなのですよね。でも、こうした話の最後に得られるのは「有り余るほどの金銀財宝」だったりします。
「あまり富を追い求めないほうが、幸せになれるよ」ならわかるのですが、「富を追い求めないほうが、富を得られるよ」という教えは、私たちに一体何を伝えようとしているのでしょうか。
なんだか難解な問答の様だと思うのですが、この難解なパターンのストーリーが国内外を問わずたくさんあるというのも不思議なところです。
こんな私の疑問に答えてくださる親切な方がいらっしゃったら、是非コメントをお願いいたします。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。